人生には上り坂、下り坂、まさかという3つの坂があるというが、プロ野球選手にとって、誰でも3つの坂を経験する。だいたい入団して上り坂になり、年齢とともに下り坂になる。これはプロ選手なら誰でも経験する。ところが「まさか」に関しては、自分が予想もしていないことが起こる。その「まさか」が戦力外であり、トレードである。その「まさか」を演じるのが球団であり、球団も商売だから、利益を追求するはてに、選手には「まさか」を告げる。しかし、「まさか」は誰でも経験することではなく、ある程度実績を出した選手に限定されるから、勝負の世界は非情といえば非情だ。こうした「まさか」がいちばん多かった時期が、西武ライオンズの前身になるにして西鉄ライオンズから西武ライオンズになった数年が多かった。
このブログを読む人には、こんな話は面白くもなんともないが、当ブログは記録として色々な出来事も掲載したいので、勝手に書いている。西武ラインズに譲渡される前は福岡に本拠地を置く西鉄ライオンズは黄金時代を経て1960年代後半には低迷期に入る。1969年には八百長問題が発覚して3人の選手が永久追放になる黒い霧事件が発覚。その1970年から3年連続で最下位となり、親会社の経営不振も重なり、球団を身売りする。黒い霧事件は、球団のみならず、プロ野球界やファンに「まさか」という衝撃を与えた。
さらに追い打ちをかけるように1973年に太平洋という会社へ球団を身売りする、これもファンには「まさか」だった。
1973年から76年までが太平洋クラブライオンズで、今度は1977年にクラウンライターへ身売りされることになる。しかし、クラウンライターとしても球団経営が重荷になり、わずか2年で西武へ身売りする。1979年の西武ライオンズ誕生まで混乱が続きトレードも盛んに行われた。
真弓明信と田淵幸一のトレード
西鉄最後の年になる1972年にドラフト3位で入団した真弓明信は、太平洋クラブ、クラウンライターの時代を経て走攻守の三拍子揃った選手へと上り坂を迎えて、1978年には初めて規定打席に達してオールスターにも初出場したが、同年オフには西武に経営権が譲渡されたときに、西武ライオンズ新球団のチーム改革と阪神タイガースの思惑が絡んで両チームのファンを集める目玉作戦で阪神タイガースの4番打者田淵幸一らとの大型トレードで阪神へ移籍する。(このときにはライオンズから若菜嘉晴、竹之内雅史、竹田和史の3人も移籍)
田淵は生涯シマのユニホームと決めていており、本人の気持ちとは裏腹に、「まさか」のトレードになる。同じく真弓にとっては田淵以上の上り坂である当時の勢からしても新生西武ライオンズでプレーすることを期待していたにもかかわらず、球団の人気集めを優先され阪神へまさかのトレード通告となった。
その後、真弓は阪神で一発の打てる1番バッターとして、1983年には首位打者、1985年には阪神が21年ぶりに優勝、そして日本一となる原動力になるなど17年間活躍した。
鉄仮面だった加藤初のトレード
1971年にドラフト外で西鉄に入団した加藤初(はじめ)投手は、72年には17勝を上げて新人王を獲得。あまり表情を表に出さないことから鉄仮面というニックネームも付いた。そして1975年までの4年間で45勝をあげ西鉄のエースとなっていたとき、76年にセ・リーグの盟主だった巨人が最下位になって、戦力補強を急いでいた巨人に伊原春樹とともにトレードされた。加藤初は「まさか」と思ったが鉄仮面の通り感情を出さずにトレードを受け入れて巨人へ。
巨人1年目の76年には広島相手にノーヒットノーランを達成したり、いきなり15勝を挙げて同年の巨人優勝に貢献。その後は巨人では17年間プレーして17年で96勝を上げて、主力投手として活躍した。90年に現役引退。通算490試合に登板し141勝113敗、22セーブ、防御率3.50。引退後は巨人、西武、韓国プロ球団などでコーチを務めた。
この二人がトレードされずに西武ライオンズに在籍していたらどんな活躍をしていたかを見たっかった。
こうした混迷期には球団の事情があって、選手が犠牲になった。
一方、ライオンズに移籍して活躍した選手の一人でも永射保という左サイドから投げる独特のフォームだった投手が広島から1974年に太平洋へ移籍して、そのまま西武ライオンズの第一期黄金時代となる左のワンポイントとしてライオンズの球史にのこる活躍をした。
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