1. 西鉄ライオンズの歴史
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西武ライオンズの前身となった西鉄ライオンズの歴史を振り返る

西鉄ライオンズ

西武ライオンズの前身である西鉄ライオンズの歴史を振りかえります。西鉄ライオンズの親会社である西日本鉄道の公式サイトより戦歴や選手のプロフィールなどを引用して筆者の観戦記憶を追加して編集しています。引用した画像はあくまでも個人の趣味として利用させてもらっています。問題あればいつでも削除いたしますので、ご了承ください。

西鉄ライオンズの誕生まで

1951年(昭和26年)1月30日にパリーグの西鉄クリッパーズ(西鉄が親会社)とセリーグの西日本パイレーツが合併して西鉄ライオンズという新球団が誕生した。西日本パイレーツは1950年に西日本新聞社が親会社で1年間だけ運営した。この当時は1934年に読売新聞社が読売巨人軍を設立しており、戦前戦中における娯楽としてプロ野球は盛り上がっており、その影響を受けた西日本新聞も球団経営に乗り出している。なお、そのシーズンは西日本パイレーツは読売巨人軍と対戦し相手エース格の中上英雄投手に手も足も出ないで完全試合を許している。

1年だけ存在した幻のプロ野球チームの西鉄産業軍

西鉄ライオンズはその前身にノンプロ球団も経営していた。太平洋戦争の戦時下において昭和17年9月に西鉄を始め地元福岡県の私鉄5社(九州鉄道・筑豊鉄道など)が合併して誕生した。同年にプロ野球の大洋軍を買収してチーム名を「西鉄軍(西鉄産業軍・西鉄野球倶楽部)」としています。本拠地を現在の福岡県春日市にある春日原球場として、監督に、近鉄の監督にもなる石本秀一を監督に迎えて発足。

投手には濃人渉(その後中日監督)や近藤貞雄(その後中日監督にもなる)、25勝を挙げた西鉄のエース野口二郎投手、アンダースローの元祖と言われた重松道雄投手らを擁して秋季リーグでは優勝を飾るも、戦況の悪化で翌年は選手確保もままならず、僅か一年で解散した。ちなみに西鉄産業軍としての春日原球場での試合は一試合も行われていません。
春日原球場
(春日原球場での西鉄ライオンズ試合風景:1952(昭和27)年 所蔵:西日本鉄道(株)

ノンプロ野球チーム西鉄は昭和23年に優勝

ノンプロ西鉄軍西鉄クリッパーズの母体となったチームで終戦後にプロ野球連盟へプロ野球加盟の申請を出すが、復帰を認められずに昭和21年に社会人野球(今でいう都市対抗野球みたいなもの)へ参加した。1948年(昭和24年)8月の都市対抗野球に初参加した。のちに西鉄クリッパース、西鉄ライオンズで活躍する選手(宮崎要監督兼二塁手以下、武末悉昌投手、上野義秋一塁手・深見安博三塁手・大崎憲司右翼手・塚本悦郎中堅手・伴勇資捕手)の活躍見事に優勝を遂げた。
(上記写真は第19回都市対抗野球大会優勝の記念写真 所蔵:西日本鉄道(株)山本魚睡コレクションより引用)
決勝戦では後に大毎オリオンズのエースとなる火の玉投手の荒巻淳、強打者の西本幸雄(元阪急監督)今久留主淳(のちに西鉄へ移籍)らを擁する別府星野組を対戦。荒巻が故障で先発できない運もあって初優勝した。そしてこのチームを母体として昭和25年にセパが分裂した時にパリーグに西鉄クリッパーズというプロ野球チームで加盟した。

なお、ノンプロチーム西鉄軍は新たにチームを編成して西鉄社内外から選手集めするもままならず1950年4月に解散した。このチームの中に電車の車掌をしていた河野昭彦が三原監督に見いだされて西鉄ライオンズの清一塁手として活躍するようになります。1950年は私が生まれて3歳の時でした。

昭和25年西鉄クリッパーズ誕生

プロ野球がセパに分裂した昭和25年に西日本鉄道は(西鉄)は、バスや電車の利用者への恩返しと地域活性化のためにノンプロ西鉄軍を西鉄パイレーツとして引継ぎに加え、巨人軍のエースだった川崎徳次(のちに西鉄監督も歴任)前年度南海で20勝を挙げた武末悉昌、野口正明ら九州出身のプロ球界の有力選手を集めた。初年度は7球団中(毎日・南海・大映・阪急・西鉄・東急・近鉄)の4位。オフに西日本パイレーツとの合併話が具体化し、翌1951(昭和26)年に合併して西鉄ライオンズとなった。

西鉄クリッパーズ
本拠地春日原球場にて (雑誌「野球界」1950年5月号より)
川崎徳治投手
川崎徳次投手
西鉄クリッパース(パ・リーグ)年度別成績
年 度 監 督 順位 試合 勝利 敗北 引分 勝率 打率 本塁打 防御率
1950(昭和25)年 宮崎 要 5 120 51 67 2 .432 .254 79 3.87

西鉄ライオンズ年表(1951年~1972年)

年度 内容
1949年 西鉄クリッパース結成、2リーグ分裂後のパ・リーグに加盟(11月)。
1951年1月 西鉄クリッパースと西日本パイレーツが合併しパ・リーグに加盟、西鉄ライオンズ誕生。
1952年 中西太が入団、シーズン途中に大下弘が東急から交換トレードで西鉄入り。野口正明が最多勝利投手、中西太が新人王。
1953年 豊田泰光、高倉照幸、河村久文、西村貞朗入団。川崎徳次が最優秀防御率・最多勝利投手、中西太が本塁打王・打点王、豊田泰光が新人王。
1954年 仰木彬、滝内弥瑞生ら入団。島原キャンプ開始。平和台球場で初ナイター(6月2日)。初のリーグ優勝(10月19日決定)。西村貞朗が最優秀投手(勝率1位)、中西太が本塁打王、大下弘が最高殊勲選手。日本選手権は中日に3勝4敗で敗退。この年、筆者は7歳親父に連れられ平和台球場へ初めて行った。
1955年 和田博実、若生忠男、玉造陽二、田中久寿男ら入団。中西太が首位打者・本塁打王、河村久文が最多奪三振。90勝50敗4分も首位南海に大差の2位。
1956年 稲尾和久、畑隆幸ら入団。南海を3厘差で逆転し2度目のリーグ優勝。日本選手権では4勝2敗で巨人を破り初の日本一となる。中西太が最優秀選手・打点王・本塁打王、豊田泰光が首位打者、島原幸雄が最高勝率(最優秀投手)、稲尾和久が最優秀防御率・新人王。
1957年 城戸則文、小渕泰輔ら入団。7月以降14連勝するなど独走でリーグ連覇、日本選手権でも4勝1分で巨人を破り連続日本一となる。稲尾和久が日本記録の20連勝を達成、投手三部門(防御率・勝率・最多勝)を独占し最高殊勲選手。中西太が打点王、打撃十傑に5人(中西太、大下弘、関口清治、豊田泰光、高倉照幸)。
1958年 新設の小倉球場で開幕戦(4月5日)、改装された平和台球場での初戦(4月26日)を経て前半戦で故障者が続出し、首位南海に10ゲーム以上を離されるも8月以降に驚異の追い上げで厘差の逆転リーグ3連覇。日本選手権では3連敗後に稲尾和久の大活躍で奇跡の4連勝、三連覇を達成した。西村貞朗が東映戦(7月19日)で完全試合達成、稲尾和久が二年連続の最高殊勲選手・防御率1位・最多勝利、中西太が首位打者・本塁打王。
1959年 故障者続出に加え公式戦終了後に大下弘の引退、三原脩監督の退団が続くなど、4位と低迷。稲尾和久が3年連続30勝。室内練習場を備えた百道寮が完成(9月)、川崎徳次コーチが後任監督に就任(11月)。
1960年 川崎新監督のもと、20勝の稲尾和久、打率9位の豊田泰光を中心に3位に入るも優勝争いには最後まで絡めず。小渕泰輔がサイクルヒット達成(8月6日)。
1961年 中西太が二リーグ分裂後入団初の200号本塁打(4月22日)。初の沖縄での公式戦(対東映戦・5月20日)。稲尾和久が日本タイ記録となる42勝をあげるなど、チームは81勝をあげるも3位。稲尾は防御率1位・最多勝利・勝率の投手三冠・最多奪三振も獲得。オフに川崎徳次監督がフロント入りし中西太新監督が就任(11月)。
1962年 中西青年監督のもと奮闘するも3位。稲尾和久が最速200勝達成(8月25日)。オフに豊田泰光が国鉄へ移籍。
1963年 前半戦で14.5ゲーム差を離されるも、ロイ、バーマ、ウィルソンの3外国人の活躍もあり、近鉄との最終4連戦に4連勝して「奇跡」の逆転優勝。日本選手権では巨人に3勝4敗で敗退し、これが最後のリーグ優勝となった。稲尾和久が8年連続20勝・最多勝利投手、田中勉が勝率1位。
1964年 井上善夫ノーヒットノーラン達成(5月16日)。西亦次郎社長がパ・リーグのオーナー会議で、抽選で新人獲得球団を決める「新人プール方式」を提案(のちのドラフト制度)。
1965年 小倉球場で初ナイター(4月24日)。故障明けの稲尾和久が13勝、池永正明が新人王。
1966年 田中勉が完全試合(5月12日)、清俊彦がノーヒットノーラン(6月12日)、稲尾が通算250勝を達成し防御率1位となるなどチームも2位となる。
1967 年 若生忠男がノーヒットノーラン(9月17日)、池永正明が23勝で最多勝利のタイトルを獲得するなどで、前年に続く2位となる。
1968 年 和田博実のサイクルヒット(5月28日)、中西太の通算13本目の代打本塁打、稲尾和久が通算2500奪三振を獲得するなど往年の選手の活躍あるも5位。
1969 年 シーズン終了間際の10月、永易将之投手の野球賭博関与が発覚し球団は二軍降格と謹慎を発表(黒い霧事件始まる)。チームは5位と低迷、中西太監督の現役引退と監督退任し(10月22日)、稲尾和久新監督が就任(11月4日)。
1970 年 稲尾監督のもと、関口清治ヘッドコーチ、河村久文投手コーチら西鉄黄金期のメンバーがサポートし東尾修ら若手の台頭あるも、黒い霧事件による主力投手の永久追放が響き球団初の最下位と低迷。
1971 年 年間通じて戦力の台頭少なく2年連続の最下位(38勝)。
1972 年 東尾修が18勝(25敗)、加藤初が17勝で新人王を獲得するなど若手の台頭あるも、公式戦終了後の10月28日に西鉄は球団経営権を譲渡。11月18日に「さよなら西鉄ライオンズ」として平和台球場でオープン戦が開催され、5対1で勝利。西鉄ライオンズのユニフォーム姿が披露された。

(上記年表は西鉄公式サイト西鉄ライオンズアーカイブより引用)

筆者の記憶を辿りながら西鉄ライオンズの戦歴を振り返る

年表のように1951年に1月に西鉄ライオンズが誕生。チームの愛称ライオンズは西日本新聞社のファン公募によって2月に決定した。その時に就任した三原修監督は当時の強豪球団南海ホークスに対抗するために、高松の怪童といわれた中西太や水戸の暴れん坊といわれる豊田泰光など今でいうドラフト1位選手を入団させた。三原監督独自の自由奔放な育成法によって中西太や豊田泰光は頭角を現した。トレードで獲得した強打者大下弘の青バットは、当時巨人軍の主軸を打った川上哲治一塁手の赤バットと人気と実力を二分した。

三原監督就任の4年目にリーグ初優勝

三原監督就任4年目の1954年に初優勝するも、日本シリーズではセリーグ優勝チーム中日に3勝4敗と敗退した。それも中日のエース杉下茂のフォークボールは消える魔球と言われるほど、西鉄の打線は沈黙した。
そして1956年に神さま・仏様。稲尾様が別府緑が丘高校から入団します。その年にもリーグ優勝を果たし、日本シリーズではセリーグ優勝チーム読売巨人軍と対戦。この対戦は戦地から引き揚げてきた水原を監督して招へいし、当時の三原監督を巨人から追い出されるになって西鉄監督に就任した因縁があった。なので、メディアはこの両チームの対戦を巌流島の決戦名付けて日本シリーズを盛り上げた。1956年(昭和31年)から3年間において、西鉄と巨人の死闘が続き西鉄の日本シリーズ3連覇を遂げ、西鉄の黄金期を築いたのです。

特に、1958年(昭和33年)には、巨人が3連勝の後、後に引けない西鉄は本拠地平和台球場で第4戦を迎えます。しかし、第4戦は雨が降って中止。この雨が奇跡をもたらす恵の雨となるのは誰一人知る由もありません。

三原監督は、この雨天中止に賭けて、選手全員を休ませたのです。本来なら崖っぷちに立っているから練習したくなるが、それを無視して完全休養日として、翌日の第4戦に臨んで稲尾の快投で初勝利します。そして、試合は第7銭までもつれてライオンズが奇跡の逆転優勝して日本一になったのはライオンズの語り草となっています。

西鉄ライオンズ黄金期
西鉄vs巨人日本シリーズ第3戦、試合前のベンチ風景。 1956(昭和31)年10月13日 所蔵:西日本鉄道(株)
西鉄ライオンズ黄金期2
最終戦まで4連勝し逆転で最後の優勝。試合後の場内一周あいさつ。1963(昭和38)年10月20日

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